藤のルーツ 第15回

戦時中の学校

1940年4月1日には、教会を国家的統制のもとに置くために前年に公布された宗教団体法が施行されました。9月6日に教皇使節から上京を求められたキノルド司教は、同月15日に帰札した翌日に札幌在住の司祭たち全員を呼び集め、東京での話を伝えました。幾つか学校に関係することを記すと次の通り:(1)外国人教区長は辞任して、邦人と更迭すること、(2)日本の教会は外国から独立し、決して外国からもローマからも援助を受けてはならぬこと、(3)外国人である学校長は早速邦人と更迭しなければならぬこと、(4)日本の学校はみな無宗教を建前としているのであるから、学校の中に宗教的印を置いてはならぬこと、修道服もやはり宗教的印とみなすので、修道女たちは学校に出る時には俗服を着なければならぬこと、(5)外国人教職員は当分授業を続けてよいが、ただ語学の教授に限ること、そして漸次日本人と更迭してほしいこと、などでした。キノルド司教は、1940年10月に札幌代牧としての辞表を提出し、1941年2月に後任の戸田帯刀師が着任。1940年12月に校長Sr. クサヴェラが辞任届を提出し、Sr. 牧野キクを校長とすることの許可を文部省に申請しました。1941年2月24日にその許可が届き、3月1日にSr. 牧野キクが正式に校長の任に就きました。

道内唯一の5年制高等女学校であった藤も、1944年から 4年制にするよう政府からの命令があり、1945年3月には4年生と5年生が同時に卒業です。これで生徒の数は大いに減るはずでした。ところが、国は札幌に女子医専を作るために北星女学校の校舎を接収し、そのため北星は生徒を受け入れることができず、藤で100人ほど多くの生徒、つまり250人を入れるようにと道庁からの要請。その結果、約300人を合格させて、892人の生徒で1945年の新年度開始です。

どの学校も軍の作業場に生徒派遣があり、藤の生徒も軍の被服廠工場作業が求められました。牧野校長は工場ではなく学校でその作業を行うことを願い出て、生徒たちが校内作業をする許可を得、交代で作業と勉強を行いました。軍の要求にも毅然として学校側の考えを述べ、生徒たちを守ったのです。結果的に、毎日ノルマ以上の働きができて土・日は休むことができ、軍も満足の上、時折、食糧や薪・石炭などを学校や寄宿舎、そしてマリア院にまでも運んでくれたと記録されています。

(左)和服を着て執務するシスター牧野校長 (右)軍の要請による兵隊のシャツなどの縫製作業を、工場ではなく校内で。
(左)和服を着て執務するシスター牧野校長 (右)軍の要請による兵隊のシャツなどの縫製作業を、工場ではなく校内で。