1907年にドイツから来日し、札幌を中心に宣教活動を始めていたフランシスコ会の責任者であったヴェンセスラウス・キノルド神父は、北海道の宣教のために教育活動が必要であると考えました。そこで1914年に女子教育を行うために故国ドイツの女子修道会からの派遣を要請し、私たちの修道会「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」がその要請に応じてシスターを派遣することを決定。その年の7月9日に北ドイツのテュイネから、シスター・クサヴェラ・レーメを含む4人のシスターたちが出発しました。再び故国の土を踏むことも、愛する家族やシスターたちとの再会もない覚悟の出発です。
ドイツの真中あたりのフルダに寄り、そこから宣教師として日本へ派遣されるフランシスコ会の4人の司祭たちと合流。そしてイタリアのアシジに行き、そこからローマに行きます。ローマでは教皇ピオ10世の謁見を賜り、使命のために祝福をいただきました。その後、7月27日にナポリからドイツ船リュツォフ号で出港。30日にはポートサイドに到着し、スエズ運河を通過。翌31日にロシアとドイツの間で戦争が勃発したという知らせが入り、英国も戦争に参入することが懸念され、その先の寄港地アーデンもコロンボも英国領であることから、船は中立のスエズ港に戻りました。
8月6日には英国船が来て、リュツォフ号が航行できないように係留し、船員も乗客も戦争捕虜になった状態に。それで翌日から船上で日本語の勉強です。兵役義務のあるドイツ人はすべて召集され、4人の同行司祭のうち3人はドイツ行きの切符が手配されてお別れ。
8月20日には、教皇ピオ10世逝去の悲しい知らせを船上で聴きます。日本にも行くことができず、ドイツへ帰国する手段を探し回り、ついに8月26日にオランダ船に乗船。イタリアのジェノアで下船して鉄道でスイスとオーストリアを通ってフルダに立ち寄り、そこでスエズで別れた3人の司祭たちとも再会できました。
9月8日にようやくテュイネの修道院に戻ることができ、無事な再会を喜びのうちに神に感謝しました。この日、シスター・クサヴェラは次のように日記に記しています。「時が来たなら、愛する神様は私たちが日本でのミッションの働きに協力するため、すべてを導いてくださると希望する。」
これが4年間も続く大戦になるとは、その時は誰も考えませんでした。