前回は、16世紀半ばのキリスト教と東洋との出会いでした。日本に伝えられたキリスト教は多くの有力武士の信徒も獲得し、またさらに大勢の貧しい農民たちも獲得するにいたりました。
時の権力者たちにとって、キリスト教がもたらした大きな脅威は、信徒たちが身分の違いを超え、さらに支配者の垣根を越えて結びついていたことです。そこに権力者が危険を感じたのは想像に難くありません。
キリスト教の渡日から50年ほど経て始まったキリスト教迫害は、世紀が改まって17世紀になると、宣教師たちに対する迫害の厳しさはますます度合を増します。宣教師の国外追放令が出されても、日本に残留して信徒たちの霊的な世話をする宣教師たち、密入国を試みて成功してもすぐに見つかり処刑される宣教師たち…。大勢の宣教師たちが命をキリストのために捧げました。そして日本人信徒たちも求められるまま仏教徒として寺の檀家に登録し、二重の生活をして生き延びました。宣教師不在の日本で、このように潜伏キリシタンによっておよそ七代にわたって子孫に信仰が伝えられました。
19世紀中頃、長崎他幾つかの港が開かれ、外国人居留地が設けられると、そこに外国人のための教会建設が認められました。1865年、長崎の丘の上に美しい大浦天主堂が建って間もないある日、浦上地方に潜伏していたキリシタンたち男女十数名が見物を装い、聖堂で祈っているフランス人司祭プティジャン神父の傍に近づき、「サンタ・マリア様のご像はどこですか?」と囁いたのです。このときの司祭の驚きはどれほどだったでしょう。その他、この司祭が自分たちの先祖に伝えた司祭たちと同じ信仰の者であるかどうか、確認の質問を幾つかした上で、「私たちの胸、あなたさまと同じ胸です」と宣言したのでした。この出来事は世界にいち早く伝えられました。しかし、これがきっかけで更に「浦上四番崩れ」として知られる過酷な迫害が始まりました。
明治政府は欧米諸国からの圧力を受けて禁教令を解除し、カトリック、プロテスタント、ロシア正教など、たくさんの宣教師が来日しました。19世紀の終わりに日本におけるキリスト教の再宣教が始まったのです。