第9回 「父と子と聖霊」

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第9回 「父と子と聖霊」

ユダヤ教は神を「主」あるいは「父」と呼びます。しかし、そのユダヤ教を母体とするキリスト教は、「父」と同じく「子」をも「主」と呼び、さらに「聖霊」を加えて神を「三位一体」と捉えるようになりました。これは人間の理性の力を超えた「秘義」とされますが、一般には、前回のテーマ「無原罪の御宿り」と並んですこぶる評判がよくありません。

そもそも宗教は理解するものではなく信じるものだ、としばしば言われます。しかし、そう言われても胸のうちに巣食った疑問が解消されるわけではありません。神学的営みの醍醐味の一つは、そうしたわれわれの理性の力を超えた対象に理性によって如何に肉薄するかだと言ってよいでしょう。カトリック信者の大部分は、疑問は疑問として棚上げしたまま、日常生活の様々な場面で、「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と、あたかも呪文のように唱えながら十字を切ります。通常は、「父と」で右手の中指の腹で眉間のあたりに、「子と」で胸の中央に、「聖霊の」で左胸に、「御名によって」で右胸に順に触れて、最後に「アーメン」で合掌します。ただし、東方正教会では、左・右ではなく右・左になります。

では、父と子と聖霊の関係はどのようなものでしょう。父は地上にわが子イエスを送り、その子が贈罪の死を遂げてキリストとして復活し父の右の座に引き上げられた後、われわれに与えられたのが聖霊、というわけです。この聖霊は父から発出するのか、それとも父と子から発出するのか。この問題をめぐって西方教会(ローマ・カトリック)と東方教会は分裂してしまいました。これをフィリオークエ(「と子から」)論争と呼びますが、合理的な東方教会は、当然、父からのみ発出するとしています。ちなみに、唯一神を厳密に捉えるユダヤ教やイスラムから見れば、三位一体の教えは多神教に限りなく近づきます。


(キリスト教文化研究所 阿部 包)

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