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教員からのメッセージ
活き活きとした実感を元に、物事を考えてみましょう
石井佑可子(現代社会専修:心理学)

嘘をつくことは良いことでしょうか?人の気持ちが分かることは?怒りをぶつけることは?子どもを褒めることは? 
…こうした行動がみられるのは日常生活の中のごくありふれた風景で、その良し悪しについてvは簡単に答えが出せるように思えるかもしれません。しかし、ちょっと立ち止まって、皆さん自身の普段の生活に照らし合わせて考え直してみましょう。じっくり考えてみると、「良い」とされていることが通用しなかったり、「悪い」ことが効果を持ったりする場面も意外とあるのではないでしょうか。そしてさらによくよく考えていくと、私たちが毎日の暮らしの中で、様々な行動を実に巧みに使い分けて、見事に人生を進めていっていることに気が付くかもしれません。 
心の働きを扱う心理学の対象は、他でもない私たち自身です。心理学で考察する際には、専門知識を身につけることもさることながら、自分自身が心を有した主体であるという感覚に敏感になって、バランス良く考えていく力が強みになります。日々生活していく中での様々な出来事に対して、気持ちを巡らせる癖をつけてみてください。そうすると、これまで当たり前と思って見過ごしてきたことの中に新しい発見があるかもしれません。自分自身の実感を元にして、通説や既存の理論を活きた感覚で考察する面白さを一緒に体験しましょう。 

多様性を引き受ける勇気と技術
伊藤明美(現代社会専修:異文化コミュニケーション論)

世界は「多様化」の一途をたどっています。グローバル化は必ずしも文化の画一化をもたらすものではありません。科学技術が世界的に「標準化」していく一方で、私たちは、むしろ、多様な価値観をもつ人々とどのように付き合い、平和的に暮らすのかを、真剣に考えねばならない時代に生きていると言えましょう。 
みなさんの多くは、おそらく「同じコトバを話せば」(あるいは「英語が話せれば」)、異なる文化の人々と通じ合えると思っていることでしょう。もちろん、それは異文化コミュニケーションの重要な第一歩ではありますが、コミュニケーションはそれほど単純なものでもないのです。私たちの心の中に静かに潜む「文化的価値観」というものは、実は日常のコミュニケーションに数多く表出し、異なる文化背景を持つ人たちとのコミュニケーションを妨げることがあるからです。たとえば、日本では大成功をおさめた、みなさんも大好きなディズニーランドですが、フランスでは設立当初経営不振が続きました。理由はさまざま指摘されていますが、その大きなものの一つに、アメリカ人が無意識に持ち込んだコミュニケーション方法があるとされます。フランス語で話された内容であっても、フランス人従業員には理解できないところが多々あり、かれらは不満を募らせていったのです。 
地球上の、そして地域の多様性を引き受けることは、自分自身をよく知り、相手との違いを認め、責任をもって公正に相手と関わりあう勇気、そして鍛え抜かれたコミュニケーション技術が必要です。文化総合学科では、異文化コミュニケーションの第一歩に必要な語学訓練だけでなく、「多様性を生きる」ためのさまざまな学習が可能です。こうした環境の中、わたし自身もまた、みなさんと共に学び、そして成長していきたいと、強く希望しています。 

長期的な学びを視野に
野手修(現代社会専修:文化人類学)

大学の4年間は長いようで短いものです。特に卒業後の進路や方向を真剣に考えるとやらなくてはならないことがとても多くなります。文化総合学科の特質は比較的能率的な方法で異なる領域の知識や考え方に触れることにより、これからの大学教育でもとめられる長期的な視点からの「学び」の準備ができることにあると思っています。もちろん何に焦点をあてるかは個々人で異なり、人それぞれです。でも学びにはそれなりのルールや道筋、ツボのようなものがあります。授業では私自身の専門(文化人類学)をふまえ、学科ならではの学際的な内容のものをめざそうとこころがけています。その目標はしっかりとした学術的基盤をもつ息の長い知的関心の育成です。

入り込むこと、引いて見ること
真鶴俊喜(現代社会専修:法学[憲法])

つい先頃、臓器移植法が大きく改正されました。基本的な方針として、脳死を人の死と定義し、脳死の未成年者の臓器の移植が可能となることが決定されました。これまで日本では許されていなかった脳死の子供からの臓器提供が今や可能となるわけですが、これを待ちわびていた子供や親にとって、このうえもない喜びでしょう。一方で、脳死の子供を持つ親の心境は複雑のようです。 
われわれには、どちらの立場にせよそれぞれの心境や立場は頭では理解できますが、当事者でなければ持ち得ない切なる問題意識や実感を持つことはできません。しかし、学問研究では、そのような切なる問題意識や実感に少しでも近づくことが大切です。そのためには、まずはその問題の当事者の立場にできるだけ入り込むことが必要となります。一方で、学問研究では客観性が求められます。このためには、入り込んで得た切なる問題意識や実感をふまえた上で、それぞれの立場や意見を引いて見て、冷静に対照・検討することが必要となります。 
入り込むこと、引いて見ること。この姿勢は法学に限るものではありませんが、人間の権利や自由、生き方などに深く関わる問題を考えるとき、特に強く求められるでしょう。 

北方地域の歴史を考える
松本あづさ(歴史・思想専修:日本近世史、北方史)

現在、「北海道」と呼ばれている島に、「北海道」という名前が付いたのは、1869(明治2)年のことです。もちろん「北海道」となる以前にも、人の暮らしはあります。例えば江戸時代には、先住民族であるアイヌの人びと、道南に根拠地を置いた松前藩、そして本州などからやって来た出稼ぎの人びとの生活がありました。しかし、こうした北方地域の歴史は、北海道に生まれ育った者にとってさえ、意外と遠く感じるものではないでしょうか。都が置かれた中央の歴史を紡ぐことだけが歴史学ではありません。地域の歴史を語る「史料」に触れたとき、新たな日本史が見え、新たな歴史の見方が深められていくことと思います。北方地域から日本史を考えてみませんか。

疑問を持つことが研究の出発点
渡邉浩(歴史・思想専修:西洋中世史、キリスト教史)

入学前から恐縮ですが、皆さんは大学卒業後の進路をどのように考えているでしょうか?とりあえずは就職して…。それで、その後は? 
「男性は仕事、女性は家庭」という考え方があります。どう思いますか?かつては常識のように受け入れられていましたが(もしかすると今でも?)、これは近代市民社会が成立する過程で作られてきた価値観です。その背景には、産業革命後に公的な職場と私的な家庭とが分離してゆく社会状況や、男女の身体的な違いに基づいて、「力強い(とされる)男性」と「優しい(とされる)女性」のそれぞれに相応しい活動領域として「社会」と「家庭」を割り当てるという思想的動向がありました。 
日常生活で「常識」や「当たり前」と思われていることでも、ある時代状況のなかで作られてきた例は少なくありません。現在の私たちが置かれている位置を確認したり、物事を批判的に見る目を養ったりするためにも、学問は有用です。先入観にとらわれず、いろいろなことに疑問を持って、自分の課題を探してください。 

学びの始まりとしての驚き
松村良祐(歴史・思想専修:西洋中世哲学、キリスト教思想)

 私はトマスやボナヴェントゥラといった13世紀のスコラ哲学を研究しています。13世紀のスコラ哲学者らがアリストテレスから影響を受けていることは比較的よく知られていることですが、アリストテレスは『形而上学』という著作の冒頭(Α, C.2)で「驚きによって、人間は(…)知恵を愛し、哲学し始める」と述べています。アリストテレスが同箇所で述べているように、知恵を愛すること、つまり哲学することは、自分の身の回りにある不可思議な事象に驚き、訝ることを出発点とします。月の満ち欠けや星々の運行、或いは月下の世界を生きる動植物の微細な造形を目にするとき、人間は驚異の念に打たれ、その事象の背後へと自然と眼差しを向けるようになります。そうした感受性は若いときに顕著なものです。どうか今ある感受性をもとに自分だけの「驚き」が見つけられることを祈っています。

「善いこと」をすることの恐ろしさについて
勝西良典(歴史・思想専修:近代思想)

みなさんは善い人になりたいと思っていませんか?あるいは、少なくとも悪い人に見られたくないのではありませんか?「あの子はずるい」と陰口をたたかれて「うれしい」と感じる人はいませんよね。でも、「善い人」って、本当に〈善い人〉なのでしょうか?
たとえば、こんなことを考えてみましょう。二人で登山をしていた人が滑落しました。二人を繫いでいたロープが運よく岩の突起部分に巻き付いたので、今のところ谷底に墜落せずに済んでいます。ですが、救助が来るまで持ちそうにありませんし、体勢を立て直してよじ登ることも不可能です。このとき、「相手を助けるために自分のロープを切って自分だけ死ぬことを選ぶこと」が「善いこと」のように思われます。でも、本当にそうなのでしょうか?
このような通常の道徳的判断が疑わしいことを確認しておきましょう。「相手を助けるために自分のロープを切って自分だけ死ぬ選択」が「善いこと」だとします。そうすると、「相手を助けるために自分のロープを切って自分だけ死ぬ選択をしないこと」は「悪いこと」ないし「善いとは言えないこと」になります。「相手を助けるために自分のロープを切って自分だけ死ぬ選択をしない」のは、「善いこと」をした「善い人」の相手の立場ですよね。だとすると、「善いこと」をすることは、この文脈では、論理的には、「相手に悪いこと(善いとは言えないこと)をさせること」と名付けてもよいことになってしまいます。このようなことを本当に〈善いこと〉と呼んでいいのでしょうか?(逆の選択でも同じ矛盾に陥ります。)
「善いこと」をすることが椅子取りゲームのようになっていて、椅子を取れないあぶれる人(「悪い人」)を必ず生み出すのだとすれば、それは本当の意味で〈善いこと〉と言えるでしょうか?「善いこと」をすることは「善いこと」を独占する恐ろしいことかもしれませんね。 

ネットで「お店選び」していませんか!?
中田貢(教職課程:社会科・地歴公民科教育法、生徒指導、教育相談)

 おいしい食事やスイーツの店を探すとき、ブログなどの口コミを参考にしていませんか。確かに「いいね!」のたくさんついた口コミは評価も高く、いざというときには大変便利です。しかし、期待していた味に出会えなかったり、定休日や価格の情報が間違っていたり、さらには、すでに閉店して別の店に替わっていてしまったりして、がっかりしたことはありませんか。
 今日の情報社会ではネット情報を活用することは不可欠ですが、いつ、だれが提供した情報なのかなど、重要な場面ではやはり情報の分析に基づいた自己決定が大切です。
 これから長い人生を歩んでいくみなさんは、人生の中でいくつかの分岐点に出会うことでしょう。そのとき、悔いのない人生を歩むためには、それぞれの分岐点で、自分自身の選択と自己決定が必要になってきます。今は、花形といわれる職業も、職を取り巻く社会的な状況の変化で、将来どのように変わっていくか、しっかり情報を把握し分析することが必要なのです。また、目標を実現するためのアプローチも、誰にでも当てはまる普遍的な方法などありません。例えば、同じ職業を目指してもそこに行き着くアプローチは人それぞれ違ってくるはずであり、どのアプローチを選ぶかでその後の職業生活にも影響が出てくることもあります。
 少し時間がかかったり遠回りしても、自分で情報をしっかり確かめながら自分で「いいね!」と思える「お店選び」してみませんか。

大学で学んだ「証」をたずさえて、実社会に旅立とう
大矢一人(教職課程:被占領期教育史)

文化総合学科では、卒業のために卒業論文が必須となっています。原稿用紙30枚以上という文章を作る苦労は並大抵ではありません。その血と汗の結晶が、毎年発行される『卒業論文・要旨集』となります。各々の論文・要旨には、大学4年間で学んだ「証」が示されています。もちろん、大学生活の「証」は学問だけではないかもしれません。私が教職課程を担当しているからいうのですが、「2、3週間の教育実習の経験は卒業論文以上に苦しかった、しかし、大変有意義な体験だった」と話す学生もいます。サークル活動がそうなのかもしれません。ぜひとも大学で学んだ「証」をもって、実社会へ旅立ってください。

「情報を扱える」人になりましょう
平井孝典(図書館情報学課程)

公立図書館では、刊行物に加えて「郷土資料、地方行政資料、美術品、レコード及びフィルム」なども図書館法で業務対象に含まれます。資料群としてまとまり があるときや寄贈を受けたときには、主題ではなく出所に注目し整理を行います(出所原則)。つまり「2016年度ニセコ 観光プロモーション強化事業」といったまとまりが、目録データの中で「有機的な単位」を構成します。整理には考えなければならないことが多々あります。例 えば、1.郷土資料などをどのように整理保存し提供の準備をするのか(一点資料の組織化)、2.長期保存対象の資料群とは何か(評価選別理論)、3.個人情報が 含まれるとき提供はいつからできるのか(利用制限の解除)、4.効率的な提供にはどのような工夫がありうるのか(インターネットの活用)、といったことで す。このような課題に対し、(図書館員として)一定の実務的な解決方法を見出せるようになったとき、あるいは解決方法を理解できるようになったとき、「情 報を扱える」人になる、少なくとも「情報を扱える」スキルをひとつは身につけた、と言えるのだろうと思います。

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