2017年度 研修旅行のご報告

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闘鶏神社(田辺市)にて
 

 8月29日(火)~31日(木)、今年度の研修旅行では和歌山県の熊野を訪ねました。
 熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社・青岸渡寺を含む三社一寺の総称)をメインに、チャーターバスで熊野古道中辺路ルートに従って巡り、補陀洛山寺、安珍・清姫伝説の道成寺、日本書紀ゆかりの花の窟、源平合戦・熊野水軍ゆかりの闘鶏神社や三段壁洞窟、異色の博物学者・南方熊楠関連施設、新宮市では同市出身の作家・佐藤春夫の記念館や中上健次資料収集室などを見学しました。
 参加者は学生17名、引率は本学科の教員・漆﨑正人先生と名畑嘉則先生、教務助手の3名、そしてぜひ参加したいということで松村良祐先生も同行しました。

1日目 8月29日(火)
 北朝鮮のミサイル発射でJRが遅れるなどの想定外のトラブルがありましたが、定刻通り全員揃って新千歳空港7:45発の飛行機で関西国際空港へ向かうことができました。
 すでに秋風の感じられる札幌から34度の炎天下の夏に引き戻される感じでした。
 チャーターバスに乗り最初に向かったのは田辺市の南方熊楠顕彰館・南方熊楠邸です。
 熊楠は1867年生まれで、大学予備門(旧東京大学)では夏目漱石、正岡子規、山田美妙らと同期でした。動植物学、とりわけ地衣類・粘菌の採集に関心をもち、中退後渡米し、やがてイギリスに渡り、「ネイチャー」への論文発表などを経て大英博物館で職を得ますが、人種差別による暴力事件をきっかけに帰国します。
 植物学をはじめ考古学、人類学、宗教学、民俗学、セクソロジーなどその関心は多岐にわたり、神社合祀反対運動から自然保護運動へ、そしてエコロジーを日本で最初に提唱した先達としても評価される人物です。
 
 顕彰館では展示を見学し、熊楠邸と「ミナカテラ・ロンギフィラ」という新種の粘菌を採集したとされる庭の柿の木などを解説を聞きながら見学しました。

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南方熊楠顕彰館にて                     南方熊楠邸にて

 また、白浜町の南方熊楠記念館には、世界一長いと言われる履歴書(矢吹義夫宛書簡)などの資料を見学しました。記念館は南紀白浜の美しい海岸線と海、そして熊楠が神社合祀反対運動で守ったという神島を臨む高台にありました。

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南方熊楠記念館にて
 

 次に向かったのは三段壁洞窟です。いわゆる南紀白浜の景勝地ですが、歴史的には源平合戦で活躍し源氏を勝利に導いたとされる熊野別当湛増(弁慶の父といわれる)率いる熊野水軍の舟隠し場だったと言われています。

        三段壁洞窟

        三段壁洞窟

         闘鶏神社にて

         闘鶏神社にて

 そのあとに訪ねた闘鶏神社もやはり源平合戦ゆかりの世界遺産で、源氏と平氏の両軍から熊野水軍の援軍を要請された湛増が、どちらに味方すべきかを鶏を紅白に分け戦わせて占った場所とされます。

 田辺市から熊野古道・中辺路を辿る形で東の新宮市へ向いました。
 その途中、3日目に訪ねる予定の道成寺の安珍・清姫伝説で知られる、清姫の生誕地・真砂の清姫の墓に立ち寄りました。清姫の墓は清姫が安珍の裏切りを知って嘆き悲しみ身を投げたという富田川の畔にあります。黄昏時ということもあり、山間の静けさの中で、まるで時が止まったかのようなひとときでした。
 この日泊まったのは熊野本宮温泉郷の川湯温泉。露天風呂の正面は東山魁夷の日本画のような杉の山。空には三日月が低く傾き、森林浴と月光浴に疲れが癒されました。

        清姫の墓から富田川を望む

        清姫の墓から富田川を望む

2日目 8月30日(水)

       つぼ湯(湯の峰温泉)にて

       つぼ湯(湯の峰温泉)にて

 翌朝も快晴。この日最初に向かったのは小栗判官伝説や一遍上人ゆかりの湯の峰温泉です。
 ここには日本最古の温泉といわれ、世界遺産に登録されている「つぼ湯」で知られています。かつて湯の峰温泉は熊野詣の湯垢離場で、旅人はここで禊をし、疲れを癒しました。
 東光寺の本尊・薬師如来は湯の華が自然とつもってできたと言われ、また、その胸から温泉が噴出していたため、元は湯の胸温泉と呼ばれていたのが転訛して現在の名称になったそうです。

 さて、いよいよ今回の研修旅行のメインである熊野三山のひとつ熊野本宮大社へ向かいました。
 熊野三山という仏教的名称は神仏習合以降のもので、それ以前はそれぞれの神社として異なる祭神や起源をもってましたが、平安時代以降三社の一体化が進み、熊野にもともとあった原始信仰や山岳仏教の修験道などとの融合により熊野権現信仰が形成されました。
 熊野詣は平安中期に盛んになりますが、本宮は西方極楽浄土(阿弥陀如来による来世の加護)、速玉大社は東方瑠璃浄土(薬師如来による前世救済)、那智大社は南方補陀洛浄土(千手観音による現世の利益)とされ、極楽浄土の地である熊野へ参拝することは即ち蘇り・再生を意味し、熊野は「蘇りの地」とされています。
 

          熊野本宮大社にて

          熊野本宮大社にて

 また、2004年に熊野三山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」は世界遺産に登録され、国内外から多くの人々が訪ねています。
 バスの窓から熊野川の中州にある熊野本宮大社旧社地・大齋原(おおゆのはら)の大鳥居を眺めながら、まもなく本宮大社に到着しました。
 第一の鳥居から石段を登り、結宮・證証殿・若宮を参拝し、宝物殿を見学しました。また、境内には和泉式部の供養塔がありました。

 次に向かったのは新宮市の徐福公園です。中華風の楼門がある公園は周囲に異彩を放っていました。徐福は秦の始皇帝の命で不老不死の霊薬をもとめ、この熊野の地に辿りついたと言われていますが、公園内にはこの地にとどまり大陸へ帰らなかったといわれる徐福の墓と、徐福が探し当てた「天台烏薬(てんだいうやく)」の木がありました。

      徐福公園(新宮市)にて

      徐福公園(新宮市)にて

 午後はまず熊野速玉大社の参拝から始まりました。
 速玉大社では「熊野観心十界曼荼羅」の絵解きをお願いしていましたので、まず代表の学生が玉串を捧げて参拝してから絵解きを聞きました。この曼荼羅は熊野比丘尼(びくに)が全国を巡り、熊野信仰を説いて歩いた時に使われたということです。絵解きのあとはお神酒をいただき、この旅の安全祈願にもなりました。

         熊野速玉大社にて

         熊野速玉大社にて

 境内のすぐ隣には新宮市立佐藤春夫記念館があります。佐藤春夫は明治から昭和にかけて活躍した新宮出身の詩人・作家です。
 記念館の建物は、昭和2年(1927年)に東京都文京区に建てられ、佐藤春夫が亡くなるまで過ごした家で、佐藤春夫の故郷である新宮市に移築されました。
 瀟洒な作りの洋館には女子学生の心を惹かれる意匠が様々に施されていました。館長の辻本氏の解説のもと見学させていただきました。

     新宮市立佐藤春夫記念館にて

     新宮市立佐藤春夫記念館にて

    新宮市立図書館内 中上健次資料収集室にて

    新宮市立図書館内 中上健次資料収集室にて

 次に向かったのは、新宮市立図書館内の中上健次資料収集室です。中上健次は80年代を代表する作家ですが、この資料室は将来的に記念館の設立を目指しての準備室だということでした。ここでは講義室をお借りして、佐藤春夫記念館の館長であり、中上健次とも親交のあった辻本館長から1時間ほどのお話をお聞きしました。
 ノーベル賞候補にあがっていたのではないかと言われる中上健次の作品世界は、熊野の風土や時間感覚と切り離せないものがあるのだと、あらためて感じました。

 2日目の最後に訪ねたのは和歌山県から三重県に入った熊野市にある、「日本書記」にも記述がみられる花の窟神社です。御神体は45メートルの高さの巨岩で、参加学生数名から「花の窟」が一番感動したという声が聞かれました。

        花窟神社(熊野市)にて

        花窟神社(熊野市)にて

 この日の見学はこれで終了し、新宮市内に泊まり、夜は恒例の参加者全員による親睦夕食会となりました。

3日目 8月31日(木)
 最終日、3日目の朝は恒例の朝散歩から始まりました。朝、5時20分にホテルロビーに希望者は集合し、速玉大社の元宮である権現山の山上の神倉神社を訪ねるグループと中上健次の墓所を訪ねるグループに分かれて出発しました。
 神倉神社は予想していたよりは厳しい登りではなかったようです。中上健次の墓所は少し迷いましたが、無事辿り着きました。名刺受のポストが設置されており、またお酒などが供えられており、亡くなって25年を経た今でも、作家として敬われ、親しまれていることが伝わってきました。

 朝食後は、いよいよ那智大社を目指す予定でしたが、急遽漆﨑先生の提案で補陀洛渡海の拠点となった補陀洛山寺(世界遺産)を訪ねました。
 補陀洛渡海は渡海僧が渡海舟と呼ばれる小型の木造屋形船に30日分の食料と灯火のための油をのせ補陀洛浄土を目指した、いわゆる捨身行です。
 お寺の境内には復元された渡海船が展示されていました。ほんのちょっとだけ立ち寄るつもりでいただけでしたが、お寺の方からお声がかかり、わざわざ遠くからいらっしゃったのだからと御本尊の三貌十一面千手千眼観世音菩薩(重要文化財)を見せていただきました。生きながらにして浄土を目指すという補陀洛渡海に学生たちは衝撃を受けている様子でした

       補陀洛山寺の渡海船(復元)

       補陀洛山寺の渡海船(復元)

 いよいよ那智大社です。
 那智大社へは熊野古道の大門坂入口から40分ほどをかけて歩きました。苔生した石段をひたすら登り、暑さの中、息も汗も出尽くした感じでした。
 登りきる時間に個人差があったため、辿り着いた人から参拝し、青岸渡寺へもお参りすることにしました。

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 昼食後、徒歩で那智大滝へ向かいました。これはひたすら下りの石段。辿り着くと那智大社の御神体である大滝が目の前に現れました。
 辿り着いた先に目の当たりにする清々しい滝の姿は、古の人々にとっては、映像や写真で事前に目にすることのできる今の私たちと違い、さぞ驚きをもって目にされたことでしょう。御神体とされるのは当然のことだったように思われます。

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 さて、いよいよ最後の見学施設。道成寺へ向かうことになりました。
 行きに通った中辺路ルートをそのまま戻る行程を考えていましたが、バス運転手さんの計らいで、紀伊半島の南の海岸線をぐるりと回り、道成寺へ向かうことになりました。途中、弘法大師が一晩で橋をかけたという伝説のある橋杭岩や中上健次の小説のタイトルにもなった枯木灘をながめることが出来ました。お天気は良いものの、台風が近づいていたため、波がひどく高く、独特の景観を見せていました。

            橋杭岩

            橋杭岩

 道成寺では副住職に「道成寺縁起絵巻」の絵解き説法をしていただきました。
 この話はもとは『今昔物語集』や『本朝法華験記』に収められている話ですが、想い人の安珍に裏切られたと知った清姫は蛇の姿となって川を伝って道成寺まで安珍追いかけ、寺の釣鐘にかくまわれた安珍を鐘もろとも巻付け焼き殺し、自らは海に飛び込み亡くなります(清姫の亡くなり方には諸説があります)。やがて二人は二匹の蛇となり和尚の夢にあらわれ、法華経の供養によって成仏されたとなっています。道成寺の境内には安珍と釣鐘を葬った安珍塚、また道成寺のそばには清姫の蛇塚がありました。

       道成寺にて絵解き説法を聞く

       道成寺にて絵解き説法を聞く

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道成寺(日高郡日高川町)にて
 

 関西国際空港から新千歳空港へ帰り、すべての行程が終わりました。
 三日間、お天気に恵まれ、全員無事に戻ることが出来ました。
 また、10月14日、15日の大学祭では参加した学生による研究発表で研修の成果が報告されました。参加した皆さん、お疲れさまでした。

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